メルマガ 第49号 富士重工業

メールマガジン『 名前の由来 』
今回は、トヨタ自動車が筆頭株主になる事になった

『富士重工業』

を取り上げます。

富士重工業はGMが20%の株を持つGMグループの一員でありましたが、思ったほどの成果を上げられず、GMの業績悪化もあり、資本・業務提携を解消し、かわってトヨタ自動車と資本・業務提携することになりました。


富士重工業の創業は、戦後の昭和28年(1953年)ですが、その前身となる「中島飛行機」は1917年に誕生しています。

名前のとおり飛行機の生産を目指して、海軍機関大尉を退役した中島知久平が「飛行機研究所」として設立しますが、終戦前には、日本最大、世界でも有数の航空機メーカーになります。

しかし、その「中島飛行機」も設立時にはたったの9名しかいませんでしたが、翌年には試作機の1号機を完成させます。しかし、敢え無く失敗します。続けて試作機を作成しますが、6号機でようやく大空をまともに飛ぶ事に成功します。

ようやく飛行機を完成させた「中島飛行機」ですが、飛躍するきっかけとなったのが、1919年に行われた第一回懸賞郵便飛行競技であります。これは、東京と大阪の間を無着陸で8貫目(30kg)の郵便物を積んで往復飛行する競技でありましたが、見事中島飛行機の中島式四型機が優勝します。

この優勝により国産機(中島飛行機)の性能の良さが認められ、中島飛行機は陸軍より20機の軍用機を受注することになります。その後、陸海軍から多くの戦闘機の受注を受ける事になり中島飛行機発展の基礎となります。


1935年には、陸海軍の競作に対して、川崎航空機工業(現在の川崎重工業)、三菱重工業と争い、中島飛行機の九七式戦闘機が採用を勝ち取ります。
この九七式戦闘機は、中島戦闘機史の頂点に立つとも言われるほどの性能を有しており、最終的には、3,386機が生産されることになります。

そして、この九七式戦闘機の後継機として一式戦闘機「隼」が開発されますが、思ったほどの性能を得る事出来ず、採用は見送られるところでしたが、太平洋戦争の開戦により、航空戦力の増強の必要性が生じ、1941年に一転採用となり、結果、5,751機が生産され、零戦に次ぐ生産機数をとなります。

そして、隼以上の運動性能と航続力をもつ疾風が開発され、1944年から量産開始し、こちらは隼に次ぐ3,499機が生産されます。

疾風の量産開始により、1944年には年間8,000機近い戦闘機を生産し、戦闘機王国の中島のピークを迎えます。
しかし、この頃から戦局の悪化により本土空襲が激しくなり、中島飛行機の各工場も攻撃目標となり次々と破壊されていき、生産能力を削がれていきます。そして終戦により中島飛行機は解体される事になります。

中島飛行機の創業以来の戦闘機の生産実績は、25,935機になるということです。

終戦により、15社以上に解体された中島飛行機ですが、それらのうちの5社が1953年(昭和28年)に合併した出来たのが富士重工業であります。

社名は、中島飛行機の創業者の中島知久平が富士山を好きだった事から、日本のシンボルとしてのイメージから富士をとり付けられています。


■ 沿革 ■ -----------------------------------------------

1917年(大正6年)
「飛行機研究所」を設立。

1918年(大正7年)
「日本飛行機製作所」に名称変更。

1919年(大正8年)
「中島飛行機製作所」に社名変更。

1931年(昭和6年)
株式会社化する。「中島飛行機製作所」から「中島飛行機」に社名変更。

1945年(昭和20年)
国営化される。


■ 企業データ ■ -----------------------------------------

正式社名 富士重工業株式会社
住所   〒160-8316
     東京都新宿区西新宿1-7-2
電話番号 03-3347-2111
URL    http://www.subaru.co.jp/


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まぐまぐ

2005年10月17日 22:36